世界が平和になりますように あなたが幸せでありますように
今日犬の夢をみました。
芝生の上?を歩いていると、大きな2匹の犬に会い、それはどうみても闘犬種です。
「土佐犬だわ」と思ったのですが、しっぽを振って近づいてきました。
1匹は私の後ろに回って2本足で立って、痛んでいる腰に両手をかけました。
両足交互に私の腰を叩いていました。
「本当に大きな犬ね」と言いながら、2匹の頭を撫でると「くお~ん」と鳴いて、頭をスリスリして来ました。
「こんな大きな犬も小型犬みたいな事をするんだわ」と思いましたが、そのあと小さな建物の中に私が入って行き、振り返るともうその時、2匹はいませんでした。
その建物に入った途端、あのように大きな犬と出会ったことが、急に恐ろしくなってしまいました。
犬たちがとてもおとなしく、私の痛んでいるところを叩いてくれたように感じ、その優しさが感じられているのに、全体的な景色の色彩が暗く私の心が重い状態のように感じたのは、あの二匹の心の色彩そのものだったのではないかと思います。
それからぱっと目が覚めた途端、「この犬たち供養されてないね!」と勝手に口から言葉が出ていました。
動物でも人でも、この世に生まれたときのイメージは付いて回ります。
荒ぶる顔相や普段の行動で他に与えてきた印象は、その人や動物の生きて行く道すがらの範囲を、制限してしまうことがあります。
体が大きく鋭い顔立ちの人々が、全て同じ性質を持っているわけでなく、おとなしくて弱々しい印象を他に与える人も、皆が静かで優しいと言う訳でもありません。
ところが社会に出て、色々な場所に参加していくたび、自分では思いも寄らないイメージを他人に形成されてしまうこともあります。
土佐犬などの恐ろしいイメージは、人々の戦闘性を刺激し興奮させる様な空気が犬にも伝わり、死闘に向かう心を形成するのではないでしょうか。
もちろんそういう種類の心を持って、生まれてくるものなのだということはあるでしょうが、サラブレッドのような戦闘的気質をもってくるものや、また人を助けるような穏やかな動物たちも、別の意味で自由に生きることへの制限をかけられているのかも知れません。
「本当はもっとこうしたいのに、本当はもっと自由で居たいのに」と思うことはあるでしょうし、人生も動物や植物たちの生涯もそのように出来ているのでしょう。
生きている間には、何らかのストレスと共に在り、旅立つときも自分の満足のいく静かな終焉でなかったかも知れません。
あの時に観た、2匹の闘犬はもっと優しく頭を撫でられたり、楽しい時間を過ごしたかったのかも知れません。
それでも生きものはそれを乗り越えて、「生きる」という課題を修行しているのかと私は感じます。
だから自分とは違う選択をした生き方を、否定するのではなく、たとえ理解できなくても、この世で生きる権利は認めてあげたいものですね。
ただ一つ、どんな生きものにとっても、あるいは物体にとっても、普遍的に不可欠のものがあります。
それは「愛が必要である」ということです。
その愛によって他の傷ついた心を癒やし、古いクルマや機械も長く使うことができます。
「愛」のないこの世は闇であり全ての終わりであると、私は思います。
画像は、今日分の投稿写真は後日に、ということとさせて頂きたいと思います。
この仕事柄、見るべきでないものもみてしまうことが多々あります。
今日の写真にはそのようなものが写っていましたので、差し替えたいと思います。
今日のフィーリングは、荒井由実さんの「晩夏(ひとりの季節)」、桑田佳祐氏の「月」、YORISHIROよりしろ~神の宿る場の「雫の記(しずくのき)」かな
今日も読んで頂けましたこと、どうも有難うございました。

